2005年11月
2005年11月30日
【社長Blog】 枚岡合金工具さんへ見学

徹底した現場3Sで以前より有名であった枚岡合金工具さんが、ここ最近では「時間創出」をキーワードとした
「情報の3S」を実現させる書類管理システム「デジタルドルフィンズ」でも
有名な企業である。
驚くようなきれいな職場に圧倒されると共に、我々も「頑張らねば!」と改めて感じた。
枚岡合金工具さんの経営理念にも有る「日々切磋琢磨する」が心に残った見学会だった。
ご対応頂いた古芝社長様 常務様 Blogをお借りしてお礼申し上げます。
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本日は貴重なお時間を頂きありがとうございました。
弊社の従業員に取りましても大きな刺激になってのでは無いでしょうか?
「日々切磋琢磨する」・・・良い言葉ですね。
初めておじゃましたときも「良い言葉だな」って感じましたが
ますます好きになってあちらこちらで使わせて頂いています。
また弊社にもお越しください。
本日は本当にありがとうございました。
感謝
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2005年11月28日
2005年11月25日
【社長Blog】 疑心暗鬼〜大手企業さんとの共同開発
ここ数年、自社の技術開発に多くの時間とお金を使っている。
その成果をお客様に還元しようと考え、いろいろと提案をして少しでもお客様の為になればと思っている。
だけど・・・・
「情報やノウハウ」を聞き出すだけ聞き出して後の仕事を任せる気のない方がいるのは残念だ。
あるいは、弊社のような町工場とは、桁違いの利益を出している大手企業さんなのだけど
開発のリスクを全て弊社が持たなければならないようなお話をされてくる。
弊社の穴あけのノウハウは3年や5年で構築されてきたモノではないし、バリ処理や表面処理の
ノウハウもこの3年間どれだけの時間と、試行錯誤が有ったことか!
私どもと一緒にやっていこうと言うお客様にこれらのノウハウを提供する事は、お客様にメリットが
出て利益を出して頂き、弊社も一緒についていければこれほどうれしいことは無い。
しかし、どうも現在の担当者の方からは、そういった気持ちが伝わってこない。
京都のYさん、月曜日来られますがあまりにも誠意が感じられないときは、共同開発をお断り致します。
福井のSさん、共同開発で失敗したら全てのリスクを弊社が持つ事はやはり出来そうに有りません。
疑心暗鬼になっている私が悪いのかはわかりませんが、来週お考えをお聞きしてみようと思っています。
その成果をお客様に還元しようと考え、いろいろと提案をして少しでもお客様の為になればと思っている。
だけど・・・・
「情報やノウハウ」を聞き出すだけ聞き出して後の仕事を任せる気のない方がいるのは残念だ。
あるいは、弊社のような町工場とは、桁違いの利益を出している大手企業さんなのだけど
開発のリスクを全て弊社が持たなければならないようなお話をされてくる。
弊社の穴あけのノウハウは3年や5年で構築されてきたモノではないし、バリ処理や表面処理の
ノウハウもこの3年間どれだけの時間と、試行錯誤が有ったことか!
私どもと一緒にやっていこうと言うお客様にこれらのノウハウを提供する事は、お客様にメリットが
出て利益を出して頂き、弊社も一緒についていければこれほどうれしいことは無い。
しかし、どうも現在の担当者の方からは、そういった気持ちが伝わってこない。
京都のYさん、月曜日来られますがあまりにも誠意が感じられないときは、共同開発をお断り致します。
福井のSさん、共同開発で失敗したら全てのリスクを弊社が持つ事はやはり出来そうに有りません。
疑心暗鬼になっている私が悪いのかはわかりませんが、来週お考えをお聞きしてみようと思っています。
2005年11月10日
【社長Blog】 愛知県に出張
昨日は、愛知県に出張でした。
そこでトヨタOBの方のお話を聞けるチャンスが有った。
トヨタのお膝元愛知県の工業大学だったので、学生時代に2,3回トヨタに会社見学に
行かせてもらったし、「トヨタ生産方式」について学び多くの本も読んだ。
でも、昨日のお話は感銘を受けると共に、トヨタという企業の底力を感じ取ったお話だった。
何でもない部下への接し方、提案のやり方、生産についての考え方、5S、等・・・
知識としてはもちろん知ってはいるが、長年「トヨタイズム」とも呼ばれる「ものづくりの現場」を
体験し実践されてきた方のお話は迫力さえ感じられたモノだった。
自分の考えの甘さ、努力の足りなさを実感した。
まだまだ、努力をし改善しなければ、いや逆に考えれば、まだまだ良くなっていく大阪製作所は・・・
ありがとうございました、N部長さま、本当に感銘しました。
頑張って参ります。
そこでトヨタOBの方のお話を聞けるチャンスが有った。
トヨタのお膝元愛知県の工業大学だったので、学生時代に2,3回トヨタに会社見学に
行かせてもらったし、「トヨタ生産方式」について学び多くの本も読んだ。
でも、昨日のお話は感銘を受けると共に、トヨタという企業の底力を感じ取ったお話だった。
何でもない部下への接し方、提案のやり方、生産についての考え方、5S、等・・・
知識としてはもちろん知ってはいるが、長年「トヨタイズム」とも呼ばれる「ものづくりの現場」を
体験し実践されてきた方のお話は迫力さえ感じられたモノだった。
自分の考えの甘さ、努力の足りなさを実感した。
まだまだ、努力をし改善しなければ、いや逆に考えれば、まだまだ良くなっていく大阪製作所は・・・
ありがとうございました、N部長さま、本当に感銘しました。
頑張って参ります。
2005年11月08日
【社長Blog】 お悔やみ申し上げます
今日朝の新聞で、卓球の世界チャンピオンであった長谷川信彦さんの訃報を見た。
私は中学〜大学まで卓球をやっていた。
将来は世界選手権に出たいとか、全日本でランクに入りたいとか夢を持っていた。
(結局ははしにも棒にもかからないで無名の選手で終わったのだけど・・・)
進学した大学は愛知工業大学で、全日本チャンピオンを数多く選出している名門校だった。
その多くの名選手の中でもひときわ輝いていたのが長谷川信彦先輩だった。
現役時代は、実際に試合をしてもらったこともあった。
卓球を愛する人々に多大な影響を与えた偉人が亡くなったのだと思う。
残念であり、心よりお悔やみ申し上げます。
--以下 サンスポ.com より----
昭和40年代の“卓球日本”を支えた元世界チャンピオン、長谷川信彦さん(58)が7日午前、
群馬県桐生市内の自宅近くの山林で、自身が切っていた倒木の下敷きとなって死亡した。
全日本選手権を6度制覇し、1967(昭和42)年の世界選手権で優勝するなど日本のエースとして活躍。
平成4年から桐生市で後進の指導にあたっていた。
卓球の世界チャンピオンとして名をはせ、独特の1本指しシェークハンドグリップから繰り出す強烈なドライブで
日本卓球界に一時代を築いた長谷川さんが、不慮の事故死を遂げた。
7日午前8時半ごろ、長谷川さんは自宅裏の山林に1人で伐採に出かけたが、戻らなかったため家族が捜索。
午前10時半ごろ、妻の純子さん(56)が木の下敷きになって倒れている長谷川さんを発見し、119番通報した。
近くの病院に運ばれたが、頭と胸などを強く打ち間もなく死亡。死因は窒息死だった。
倒れた木は直径約30センチ、高さ約16メートルのクヌギで、長谷川さんは自身でノコギリで伐採していて
倒れてきた木を避け切れなかったとみられる。
愛知県瀬戸市出身で、父親が卓球の国体選手という卓球一家に育った。
昭和40年、日本選手権を史上最年少の18歳で初制覇して以来、49年に引退するまで日本卓球のエースとして君臨した。
その後は卓球用品メーカーに勤務し、卓球専門誌の編集に携わった。同時に各地で卓球教室も開いていたが、
後進育成の夢を捨てきれずに平成3年に退職。4年に純子さんの実家がある桐生市川内町に移住し、自宅脇に私財を投じて
卓球場を建てて、世界王者を育成すべく小中学生らの指導に専念。同時に主婦らにも熱心に教えていたという。
13年4月には世界卓球殿堂入りも果たしていた。
卓球場の裏の山林にはランニングコースを整備していた。このランニングコース脇の雑木の伐採に出かけたところで、
事故に遭ってしまった。
長谷川さんの通夜は8日午後6時から、告別式は9日正午から、いずれも群馬県桐生市広沢町5の4746の5、
桐生広域斎場で。自宅は同市川内町4の532の1。喪主は長男、幸弘(ゆきひろ)氏。
■長谷川信彦(はせがわ・のぶひこ)
昭和22年3月5日、愛知・瀬戸市出身、58歳。名古屋電気工業高(現愛工大名電高)3年時の40年に全日本卓球選手権単を制覇。18歳9カ月の史上最年少で優勝。愛工大3年時の42年に世界選手権の単、混複、団体の3種目に優勝。以後引退まで単だけでも全日本選手権6度、アジア大会4度の優勝。平成4年には群馬・桐生市に卓球会館「テーブルテニスガーデンハセガワ」を建設、普及活動にも尽力した。13年4月に世界卓球殿堂入り。現役時代の愛称は「ポパイ」。
私は中学〜大学まで卓球をやっていた。
将来は世界選手権に出たいとか、全日本でランクに入りたいとか夢を持っていた。
(結局ははしにも棒にもかからないで無名の選手で終わったのだけど・・・)
進学した大学は愛知工業大学で、全日本チャンピオンを数多く選出している名門校だった。
その多くの名選手の中でもひときわ輝いていたのが長谷川信彦先輩だった。
現役時代は、実際に試合をしてもらったこともあった。
卓球を愛する人々に多大な影響を与えた偉人が亡くなったのだと思う。
残念であり、心よりお悔やみ申し上げます。
--以下 サンスポ.com より----
昭和40年代の“卓球日本”を支えた元世界チャンピオン、長谷川信彦さん(58)が7日午前、
群馬県桐生市内の自宅近くの山林で、自身が切っていた倒木の下敷きとなって死亡した。
全日本選手権を6度制覇し、1967(昭和42)年の世界選手権で優勝するなど日本のエースとして活躍。
平成4年から桐生市で後進の指導にあたっていた。
卓球の世界チャンピオンとして名をはせ、独特の1本指しシェークハンドグリップから繰り出す強烈なドライブで
日本卓球界に一時代を築いた長谷川さんが、不慮の事故死を遂げた。
7日午前8時半ごろ、長谷川さんは自宅裏の山林に1人で伐採に出かけたが、戻らなかったため家族が捜索。
午前10時半ごろ、妻の純子さん(56)が木の下敷きになって倒れている長谷川さんを発見し、119番通報した。
近くの病院に運ばれたが、頭と胸などを強く打ち間もなく死亡。死因は窒息死だった。
倒れた木は直径約30センチ、高さ約16メートルのクヌギで、長谷川さんは自身でノコギリで伐採していて
倒れてきた木を避け切れなかったとみられる。
愛知県瀬戸市出身で、父親が卓球の国体選手という卓球一家に育った。
昭和40年、日本選手権を史上最年少の18歳で初制覇して以来、49年に引退するまで日本卓球のエースとして君臨した。
その後は卓球用品メーカーに勤務し、卓球専門誌の編集に携わった。同時に各地で卓球教室も開いていたが、
後進育成の夢を捨てきれずに平成3年に退職。4年に純子さんの実家がある桐生市川内町に移住し、自宅脇に私財を投じて
卓球場を建てて、世界王者を育成すべく小中学生らの指導に専念。同時に主婦らにも熱心に教えていたという。
13年4月には世界卓球殿堂入りも果たしていた。
卓球場の裏の山林にはランニングコースを整備していた。このランニングコース脇の雑木の伐採に出かけたところで、
事故に遭ってしまった。
長谷川さんの通夜は8日午後6時から、告別式は9日正午から、いずれも群馬県桐生市広沢町5の4746の5、
桐生広域斎場で。自宅は同市川内町4の532の1。喪主は長男、幸弘(ゆきひろ)氏。
■長谷川信彦(はせがわ・のぶひこ)
昭和22年3月5日、愛知・瀬戸市出身、58歳。名古屋電気工業高(現愛工大名電高)3年時の40年に全日本卓球選手権単を制覇。18歳9カ月の史上最年少で優勝。愛工大3年時の42年に世界選手権の単、混複、団体の3種目に優勝。以後引退まで単だけでも全日本選手権6度、アジア大会4度の優勝。平成4年には群馬・桐生市に卓球会館「テーブルテニスガーデンハセガワ」を建設、普及活動にも尽力した。13年4月に世界卓球殿堂入り。現役時代の愛称は「ポパイ」。