2005年11月08日
【社長Blog】 お悔やみ申し上げます
今日朝の新聞で、卓球の世界チャンピオンであった長谷川信彦さんの訃報を見た。
私は中学〜大学まで卓球をやっていた。
将来は世界選手権に出たいとか、全日本でランクに入りたいとか夢を持っていた。
(結局ははしにも棒にもかからないで無名の選手で終わったのだけど・・・)
進学した大学は愛知工業大学で、全日本チャンピオンを数多く選出している名門校だった。
その多くの名選手の中でもひときわ輝いていたのが長谷川信彦先輩だった。
現役時代は、実際に試合をしてもらったこともあった。
卓球を愛する人々に多大な影響を与えた偉人が亡くなったのだと思う。
残念であり、心よりお悔やみ申し上げます。
--以下 サンスポ.com より----
昭和40年代の“卓球日本”を支えた元世界チャンピオン、長谷川信彦さん(58)が7日午前、
群馬県桐生市内の自宅近くの山林で、自身が切っていた倒木の下敷きとなって死亡した。
全日本選手権を6度制覇し、1967(昭和42)年の世界選手権で優勝するなど日本のエースとして活躍。
平成4年から桐生市で後進の指導にあたっていた。
卓球の世界チャンピオンとして名をはせ、独特の1本指しシェークハンドグリップから繰り出す強烈なドライブで
日本卓球界に一時代を築いた長谷川さんが、不慮の事故死を遂げた。
7日午前8時半ごろ、長谷川さんは自宅裏の山林に1人で伐採に出かけたが、戻らなかったため家族が捜索。
午前10時半ごろ、妻の純子さん(56)が木の下敷きになって倒れている長谷川さんを発見し、119番通報した。
近くの病院に運ばれたが、頭と胸などを強く打ち間もなく死亡。死因は窒息死だった。
倒れた木は直径約30センチ、高さ約16メートルのクヌギで、長谷川さんは自身でノコギリで伐採していて
倒れてきた木を避け切れなかったとみられる。
愛知県瀬戸市出身で、父親が卓球の国体選手という卓球一家に育った。
昭和40年、日本選手権を史上最年少の18歳で初制覇して以来、49年に引退するまで日本卓球のエースとして君臨した。
その後は卓球用品メーカーに勤務し、卓球専門誌の編集に携わった。同時に各地で卓球教室も開いていたが、
後進育成の夢を捨てきれずに平成3年に退職。4年に純子さんの実家がある桐生市川内町に移住し、自宅脇に私財を投じて
卓球場を建てて、世界王者を育成すべく小中学生らの指導に専念。同時に主婦らにも熱心に教えていたという。
13年4月には世界卓球殿堂入りも果たしていた。
卓球場の裏の山林にはランニングコースを整備していた。このランニングコース脇の雑木の伐採に出かけたところで、
事故に遭ってしまった。
長谷川さんの通夜は8日午後6時から、告別式は9日正午から、いずれも群馬県桐生市広沢町5の4746の5、
桐生広域斎場で。自宅は同市川内町4の532の1。喪主は長男、幸弘(ゆきひろ)氏。
■長谷川信彦(はせがわ・のぶひこ)
昭和22年3月5日、愛知・瀬戸市出身、58歳。名古屋電気工業高(現愛工大名電高)3年時の40年に全日本卓球選手権単を制覇。18歳9カ月の史上最年少で優勝。愛工大3年時の42年に世界選手権の単、混複、団体の3種目に優勝。以後引退まで単だけでも全日本選手権6度、アジア大会4度の優勝。平成4年には群馬・桐生市に卓球会館「テーブルテニスガーデンハセガワ」を建設、普及活動にも尽力した。13年4月に世界卓球殿堂入り。現役時代の愛称は「ポパイ」。
私は中学〜大学まで卓球をやっていた。
将来は世界選手権に出たいとか、全日本でランクに入りたいとか夢を持っていた。
(結局ははしにも棒にもかからないで無名の選手で終わったのだけど・・・)
進学した大学は愛知工業大学で、全日本チャンピオンを数多く選出している名門校だった。
その多くの名選手の中でもひときわ輝いていたのが長谷川信彦先輩だった。
現役時代は、実際に試合をしてもらったこともあった。
卓球を愛する人々に多大な影響を与えた偉人が亡くなったのだと思う。
残念であり、心よりお悔やみ申し上げます。
--以下 サンスポ.com より----
昭和40年代の“卓球日本”を支えた元世界チャンピオン、長谷川信彦さん(58)が7日午前、
群馬県桐生市内の自宅近くの山林で、自身が切っていた倒木の下敷きとなって死亡した。
全日本選手権を6度制覇し、1967(昭和42)年の世界選手権で優勝するなど日本のエースとして活躍。
平成4年から桐生市で後進の指導にあたっていた。
卓球の世界チャンピオンとして名をはせ、独特の1本指しシェークハンドグリップから繰り出す強烈なドライブで
日本卓球界に一時代を築いた長谷川さんが、不慮の事故死を遂げた。
7日午前8時半ごろ、長谷川さんは自宅裏の山林に1人で伐採に出かけたが、戻らなかったため家族が捜索。
午前10時半ごろ、妻の純子さん(56)が木の下敷きになって倒れている長谷川さんを発見し、119番通報した。
近くの病院に運ばれたが、頭と胸などを強く打ち間もなく死亡。死因は窒息死だった。
倒れた木は直径約30センチ、高さ約16メートルのクヌギで、長谷川さんは自身でノコギリで伐採していて
倒れてきた木を避け切れなかったとみられる。
愛知県瀬戸市出身で、父親が卓球の国体選手という卓球一家に育った。
昭和40年、日本選手権を史上最年少の18歳で初制覇して以来、49年に引退するまで日本卓球のエースとして君臨した。
その後は卓球用品メーカーに勤務し、卓球専門誌の編集に携わった。同時に各地で卓球教室も開いていたが、
後進育成の夢を捨てきれずに平成3年に退職。4年に純子さんの実家がある桐生市川内町に移住し、自宅脇に私財を投じて
卓球場を建てて、世界王者を育成すべく小中学生らの指導に専念。同時に主婦らにも熱心に教えていたという。
13年4月には世界卓球殿堂入りも果たしていた。
卓球場の裏の山林にはランニングコースを整備していた。このランニングコース脇の雑木の伐採に出かけたところで、
事故に遭ってしまった。
長谷川さんの通夜は8日午後6時から、告別式は9日正午から、いずれも群馬県桐生市広沢町5の4746の5、
桐生広域斎場で。自宅は同市川内町4の532の1。喪主は長男、幸弘(ゆきひろ)氏。
■長谷川信彦(はせがわ・のぶひこ)
昭和22年3月5日、愛知・瀬戸市出身、58歳。名古屋電気工業高(現愛工大名電高)3年時の40年に全日本卓球選手権単を制覇。18歳9カ月の史上最年少で優勝。愛工大3年時の42年に世界選手権の単、混複、団体の3種目に優勝。以後引退まで単だけでも全日本選手権6度、アジア大会4度の優勝。平成4年には群馬・桐生市に卓球会館「テーブルテニスガーデンハセガワ」を建設、普及活動にも尽力した。13年4月に世界卓球殿堂入り。現役時代の愛称は「ポパイ」。
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1. 訃報:長谷川信彦さん(元卓球世界チャンピオン) [ 星瑞枝ファン ] 2005年11月11日 15:20
60年代〜70年代にかけて卓球日本のエースとして大活躍だった長谷川信彦さんが突然亡くなった。
前にも書いたことがあるように(テレビにもっとスキーを露出させよう!、卓球大会、卓球大会−当日−)、父は卓球愛好者である。
全盛期末期の長谷川選手が魚沼(小....